元開成中学・高等学校 校長 柳沢幸雄 先生
論理でわかるという楽しさを知り、物理と数学を凄く勉強するようになりました。
Q1.柳沢先生ご自身が開成学園へ進学されたきっかけや影響されたことを教えて頂きたいと思います。
両親が特に教育熱心ということではなかったのですが、兄が私立の中学で勉強したのでその流れで自然に開成中学などの私立を受験しました。兄が通っていた学校は不合格だったので、開成学園で勉強することになりました。
Q2.先生ご自身が理系を選択したきっかけを教えて頂けますでしょうか。
小学校から中学校2年生頃までは、社会科と国語が得意で、理系科目はあまり得意ではありませんでした。中学3年生の理科で、物理の作用・反作用の概念がわかりにくく定期試験の解答にも失敗したので、物理の先生に質問しにいったところ、原島鮮先生が書かれた「高校課程物理」(裳華房)という参考書を紹介していただきました。赤鉛筆と黒鉛筆を使い、力の働く範囲を全て色別に書きなさいというものです。この考え方がピッタリとはまり、よくわかるようになりました。この体験から論理でわかるという楽しさを知り、物理と数学をもの凄く勉強するようになりました。頭を使って解くことが面白くなり、また解くだけではなく、美しい解き方を考えることが好きになりました。
Q3.開成学園の学生生活はどのようなものでしたか。
開成は本当に楽しかったです。小学校はそうでもなかったですが、開成は中学校から高校まで、本当に毎日楽しく学校に通いました。勉強も部活も友達も含めて、楽しくてしょうがなかったです。
Q4.東京大学進学をどのように決められたのでしょうか。
大学受験は、東京大学、慶應義塾、早稲田を受験しました。全ての大学に合格しました。色々と周囲の意見なども考慮して、最終的に東京大学理科Ⅰ類に進学しました。当時は朝永振一郎先生がノーベル物理学賞を受賞し、理論物理がとても人気がありました。東大のクラス60人の中で、50人が理論物理を希望する状況でした。しかし、大学紛争があり、およそ2年間は大学で勉強しませんでした。この頃は、「人に優しい生き方」を社会主義が実現していると多くの人が思っていたので、私も社会主義社会に関する本や高橋和巳や大江健三郎などを読むといった生活をしていました。
誰かに支持されない限りクリエイティブな仕事は成り立ちません。
Q5.当時は大変な時代であったと思いますが、大学卒業後の進路はどのように決められましたでしょうか。
小学校を卒業する時には政治家か技術者になりたいと思っていました。当時は東京に急激に人口が集中し、住宅供給不足から住宅地獄と言われていました。そのような問題を解決するために政治家、あるいは、技術者になることを考えていました。
大学卒業後は、とにかく生活を優先し、働くことで社会と繋がりをもたなくてはと考えました。仕事は何でも良いという気持ちでしたが、当時はコンピューターが身近にある時代ではなかったので、面白そうだという理由でシステムエンジニア(SE)に決めました。
Q6.その後、退職され研究へ進まれましたが、どのようにお決めになったのでしょうか。
学者になろうと思い東京大学に進学しましたが、実際には大学紛争で勉強をすることができませんでした。企業に就職してから3年間は猛烈に働きました。大変お世話になった会社でしたが、徐々に大学に戻って研究したいという気持ちが強くなりました。
当時、相当な倍率だったと記憶していますが、高田馬場の都営住宅に申し込むと、たまたま当選しました。家賃が安かったことと、今まで貯めたお金もあるので、修士課程までは何とか生活できるだろうと考えて、大学院に進学することに決めました。それと当時は30歳までなら、SEとして採用してもらえたので、研究で芽が出なかったら、またSEに戻ればよいという楽観的な考えもありました。
大学に戻り研究したい内容としては、情報と公害環境をつないだ何かができないかと考えていました。
Q7.大学院ではどのような研究をされたのでしょうか。
環境問題を研究し、特に空気の汚染に関する公害問題を研究の中心にしました。大学院で研究する過程で、測定器を発明して特許を取得しました。その測定器を使った新しい環境調査のアプローチ方法は世界で初の試みであり、国際学会で発表した結果、様々なところからお話しが来るようになりました。それがきっかけになり、ハーバード大学で働くことになりました。
Q8.日本の研究者とアメリカの研究者との違いはどのような点にあるとお考えでしょうか。
アメリカは競争社会です。ハーバード大学では授業評価が全て公開されるので、評価が悪いと次年度の学生は受講してくれなくなります。集まった学生が5人以下ですとそもそも授業を開講できなくなります。
大学側は、教授に研究者と教育者、それぞれの立場に対して年俸を提示してきます。従って、授業が開講できなければ、教育分の給料を大学からもらえなくなります。一方で、主たる部分は研究ですので、研究に使う時間の給料は研究アイデアを出して、競争的資金から獲得しなければなりません。研究アイデアを出せなくなったら、厳しい状況になります。
研究提案書はいわば製品カタログです。「私はこういった製品ができますよ、あなた買いませんか」といった売り込みをしていかなくてはいけません。1年に10本くらい提案書を作らないと生き残れないのです。研究というのはお金のことを考える必要がなく、安定してじっくり構えてやればよいということではありません。誰かに支持されない限りクリエイティブな仕事は成り立ちません。
嫌だなあと思わないもので最初に決まったものに決める。
Q9.ハーバード大学から東京大学へお戻りになられるときは、どのようにお決めになったのでしょうか。
家族のことを考えて、そろそろ日本に戻ろうかといった感じでした。日本に戻ってすぐに東京大学へ戻ったわけではなく、京都の研究所とハーバードで数年間、半年ずつ仕事をしていました。この生活は思った以上に大変でした。休みが全然なくなりました。例えば、日本は12月28日ぐらいから年末年始は休みですよね。ところがアメリカの休みは1月1日だけです。クリスマスの翌日からすぐ仕事があります。そのころはアメリカにいたので年末年始はアメリカと一緒です。そしてアメリカはゴールデンウィークがないのでその期間は働いていますが、ゴールデンウィークが終わった頃に学期が終わります。それから日本に帰ってくるんです。
日本は夏に長いバケーションをとりません。アメリカにいると結構とりますが、日本で夏の間はずっと仕事をしていました。ですから、365日ずっと働いていました。若かったからできましたが、大変でした。
そういう生活をしていた時に、東京大学から話があり、「じゃあ、やるか」という感じで、東京大学で仕事をすることになりました。
Q10.東京大学とハーバード大学で教えられてきて、学生の差は感じられましたか
ハーバード大学では教授も競争しているし、きちんと結果を出さないと講義を成立させられません。博士論文もハーバードと東大のものを比べるとハーバードの方が東大の約3倍の厚さがあります。18歳くらいだったら日本人のほうがレベルは高いと思います。但し、そのあとの鍛え方、学生たちの傾注するエネルギ―の量が違います。
Q11.母校の開成学園の校長先生をおやりになるときはどのように決められたのでしょうか。
開成の理事長からお話を頂き、お会いして決まりました。本当にシンプルな決断でした。物事を決めるときにはその場その場で選択がありますが、自分なりの原則があります。嫌だなあと思わないもので最初に決まったものに決めるというものです。
日本で教えた経験が東大だけで終わっていたら、日本の若者はだめだとずっと言っていたかもしれません。ハーバードの学生に比べれば非常に怠け者だと。しかし、母校の校長をすることになって、中学、高校の学生と触れ合うようになり、18歳までの若者は一生懸命で世界一だと思いました。
Q12.先生ご自身の進路を選択されてこられたご経験から、今後の学生や保護者の方へアドバイスをお願い致します。
背水の陣は敷いてはいけないということです。例えば、何かチャレンジするときに、チャレンジに失敗したら生き延びる方法を選んでおく。失敗したら丸太橋を渡って向こう岸に逃げる。決して水の中に落ちないように心の準備をしておく。そして、チャレンジするときに後悔は決してしない。それは受験に落ちた場合なども同じです。後悔しないためにどうするかというと、あれ以上はもうできなかったと思えるように限界まで頑張る。あの時こうすればよかったなあと後悔しないように、体力の限界であれ以上できなかったのだから、今回そういう結果になったのはもう仕方ないと考えます。もうちょっと効率よくできなかったかというようなことは考えますが、うじうじ考えることはありません。あれはもうあれ以上できなかったと。
選択するときは、例えばAとBの選択肢がある時Aに決めたとします。その時Aを選んだと考えるか、Bを捨てたと考えるか。あるいはBに失敗したので、Aを選ばざるを得なかった場合。結果としてAを選んだにしても、いろいろな考えの経過を経ているわけです。ここで重要なのは、いろいろな選択肢がある中でAとBを候補に選んだという事実です。自分の嫌いなものは決して選択肢には入りません。ですからAを選ばざるを得なかったとしても、それはすでに自分の選択が働いていると考えることが重要です。
受験も一緒で、併願して受けますが、そのときも全く好みの合わない学校に願書を出すわけではありません。試験の結果、自分はこれが一番いいとは思ってもそれが実現するとは限りません。この中だったらどれが来てもいいだろうと考えなければなりません。もちろん、その中で優先順位はありますが、それに振られたときでも後悔しないだけの準備ができていれば大丈夫です。それは私の言葉でいうとbetter selection under given conditionsです。与えられた中で相対的に良い選択肢があるはずです。失敗したらどうするか、事前に考えている訳ですから、better selection under given conditionsは難しくはないはずです。
私もそうでしたが日本では悲観的に考えると何となくかっこよく見えて、周りの同情もかう事ができます。しかし、アメリカに行って気が付きました。日本は「悲しいよ、もうだめだよ」と言えば誰かが手を差し伸べてくれます。アメリカでは、「あっ、そう」と、それで終わってしまいます。大人に対しては、求められない限り、手を差し伸べることは大変失礼な振る舞いであると考えられています。大人に対する越権行為になるのです。相手が求めるのだったら助けますが、そうではなく、駄目だよと言われても、「あっ、そう」としかいいようがありません。それをアメリカで学び、本当に苦しいときは助けてと言わないといけないと思いました。日本は、それを言う前になんとなく気を配ってもらえますが、それは大人に対してはやってはいけないことです。大人はきちんと表現できるし、提案できるわけですから。但し、18歳未満の未熟な未成年には気を配ります。その意味ではもたれあいがなく、すっきりしています。こういった考えはこれからの若い世代にとって大切になってくるのではないかと思います。
先生、ありがとうございました。
関連リンク 開成学園ホームページ
現職
学校法人開成学園・中学校・高等学校・校長
1947年生まれ。1967年開成高校卒業、1971年東大工学部化学工学科を卒業。コンピュータ会社のシステムエンジニアとして3年間従事した後、東大大学院で大気汚染を研究し、博士号取得。東大助手を経て、1984年よりハーバード大学公衆衛生大学院に移り、研究員、助教授、准教授、併任教授として教育と研究に従事。また1993年より、財団法人地球環境産業技術研究機構の主席研究員を併任。1999年東京大学大学院・新領域創成科学研究科・環境システム学専攻・教授、2012年東京大学名誉教授、2011年より現職、空気汚染と健康の関係を実証的に明らかにすることが主要な研究テーマ。
大気環境学会副会長、室内環境学会会長、臨床環境学会理事、NPO法人環境ネットワーク文京副理事長、REC(中・東欧地域環境センター、在ハンガリー)理事などを歴任。
著書
なぜ中高一貫校で子どもは伸びるのか(祥伝社新書、2015)
教えて! 校長先生 - 「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ (中公新書ラクレ、2014)
自信は「この瞬間」に生まれる(ダイアモンド社、2014)
エリートの条件(中経出版)、ほめ力(主婦と生活社、2014)
世界を変える「20代」の育て方(大和書房、2013)
化学物質過敏症(柳沢幸雄、石川哲、宮田幹夫、文春新書、2002)
CO2ダブル(三五館、1997)
国際マベリックへの道、(西村肇、今北純一、柳沢幸雄、小川彰、高尾克樹、鈴木栄二、若槻壮市、ちくまライブラリー40、1990)
他共著多数