昭和大学 医学部教授 宮崎章先生
Q1.先生ご自身が医師を目標とされたきっかけなどを教えて頂きたいと思います。
宮崎家は江戸時代、細川藩の家臣であった松井家という、熊本の南部に位置する八代の殿様に仕えて儒学や医学を講じていました。
近代になって私の曾祖父宮崎好徳(こうとく)が長崎で西洋医学を学び、八代で開業しました。好徳に子はなく、その養子である宮崎松記(1900-1972)は、第五高等学校から京都帝国大学医学部に学び、ハンセン病の患者を収容する国立療養所菊池恵楓園(現熊本県合志市)に勤務しました。
松記は60歳でインドに旅立ち、救らい事業(ハンセン病の研究とハンセン病患者の救済活動)に挺身しました。この事績により、昭和天皇より勳一等瑞宝章を下賜されます。残念ながら航空機事故で亡くなったのですが、立派な祖父でした。
父の宮崎好信は第五高等学校から熊本医科大学に学び、熊本大学医学部産婦人科学教室で産科を修行した後、市中病院で定年を迎えました。
このように、3代続けて医家の家系でしたので、歌舞伎役者の息子が自然と歌舞伎役者を目指すように、何の疑問も持たず医学部を目指しました。
医師を目指した私は、「哲学のない医者は人間という機械を修繕する修繕工にすぎぬ」、「常識にとらわれていたらそれだけの仕事しかできない」という祖父の言葉を深く胸に刻みました。
医師以外は、学生時代に印象に残る先生に多く出会えたことから学校の先生に憧れたこともありました。今、大学教授として学校の先生にもなることが出来ましたが、やはり人を育てることは大変なことであると同時に素晴らしいことだと感じています。
Q2.先生は熊本高校への進学をどのようにお決めになりましたか。
熊本大学教育学部附属中学校でかなり成績はよかったので、県内で最も優秀な生徒の集まる熊本高校への進学は自然と決まりました。中学校の担任の先生から滑り止めは必要ないと言われましたので、熊本高校しか受験しませんでした。
Q3.先生自身、大学受験で苦労された経験はありますでしょうか。
高校での勉強は授業をしっかり聞くことを中心に行っていました。数学の先生から、しっかり予習して授業を完全に理解することが重要だと諭されたことがきっかけでした。しかし、残念ながら高校3年の途中で息切れして現役合格をあきらめてしまいました。
模試の結果に一喜一憂していたことを今でも後悔しています。人生を生き抜くためには、状況の如何にかかわらず、最後の最後まで力を出し切る闘志が大事だと思います。そのためには常日頃から心身ともに鍛えておかなければならないと思います。
結果的に一年間浪人することになりましたが、本質をしっかり考えながら粘り強く勉強することが、研究活動に通じる部分もあり、長い目で見たときに役に立つ経験でした。
大学では柔道部に入部して激しい稽古に耐えました。この経験はその後の研究者人生の大きな原動力となりました。
Q4.熊本大学への進学はどのようにお決めになりましたか。
父から熊本大学を勧められて、当時は父親の言うことは絶対という時代だったこともあり、熊本大学を目指しました。父は飛び級で旧制高校に合格するほどの秀才で、試験に落ちたことのない人でした。父から自分と同じレベルに達することを求められ、プレッシャーに感じることもありましたが、予備校時代に日記を書きながら一日を振り返ることを通して、弱い自分を見つめなおし、一年の浪人の後、熊本大学医学部に合格しました。
Q5.大学卒業後に研究の道へお進みになったきっかけなどを教えて頂けますでしょうか。
昭和59年(1984)熊本大学医学部卒業後、荒木淑郎教授が主宰する第一内科に入局し、3年間内科の修行をしました。当初神経内科医を目指していましたが、神経内科は難病の多い分野で、当時は根本的な治療がほとんどなく、臨床では救える患者に限界があると考えるようになりました。研修医時代に学会や講演会で素晴らしい研究に触れるたびに研究へのあこがれが強くなりました。
4年目に内科系大学院生として生化学教室で研究を始め、これをきっかけとして生化学の道に入りました。4年間で学位論文を仕上げ33歳で学位を取得しました。毎日寝る為だけに帰宅するような4年間でした。当時の熊本大学の基礎研究室は、「電灯(伝統)を消すな」、「研究室に住め。」という言葉が飛び交う環境でした。
自分の仕事が終わった後も、すぐに帰宅せず他人の研究にも興味を示し、いろいろな知識を吸収しました。それは研究者にとって大切なことでした。
学位取得後に内科に戻ることも考えましたが、納得のいく論文ができるまでもう少し研究を継続したいと思いました。しかし、平成3年(1991)に大学院を修了したものの直ちに生化学教室には職がなく、平成4年10月に助手に採用されるまで研究生として時を待ちました。
家内の理解と家内の実家の経済的サポートがなければ研究を断念したかもしれません。また40歳までに研究者として芽が出なければ内科臨床医に戻ろうと決意していました。
そういった中、平成6年(1994)にThe Journal of Biological Chemistry 誌に発表した論文により、日本動脈硬化学会学術奨励賞を受賞したことを契機として、基礎研究者としてやっていける可能性が大きく広がりました。1995-1997、米国ダートマス大学医学部生化学教室に留学、師匠は台湾系米国人のTa-Yuan Chang教授でした。Chang教授が週に7日間働く姿をみて感銘しました。現在もChang教授を目標に頑張っています。
Q6.昭和大学への着任はどのようにご決断されたのでしょうか。
平成12年(42歳)、主任教授に勧められ、ある国立大学医学部の生化学講座の教授選考に応募しましたが、残念ながら採用されませんでした。
平成14年(44歳)、この年生化学講座の教授選考の公募が全国で3大学(長崎大学、弘前大学、昭和大学)あり、最も採用の可能性があると考えた昭和大学にアプライしました。東大理学部出身者2名をはじめ、全国から14名もの立候補者がいましたが、研究歴と教育歴のバランスのとれた点が評価され、幸いにして選出されました。
基礎医学の研究をしている身としては、自分の理想通りに研究室を作ることは研究活動上とても重要でした。生化学講座の教授選考の公募に応募して、昭和大学の教授になることが出来ました。運がよかったと思います。日々の研究に精力的に取り組んでいたからこそ幸運が舞い降りてきたのだと思います。
Q7.先生のご経験を踏まえまして、進路を選択する場合に受験生や保護者の方へアドバイスをお願いいたします。
本当に歩みたい道を選んでほしいと思います。医学部人気が加熱しているためか、昨今、医学部には医者になりたくないけど親に押し切られて入学してくる学生が毎年1名ほどいます。多くは、「本当は理工系に行きたかった」というのです。気の毒だと思います。親の人生観に引きずられず、自分の人生を真正面から考えてほしいと感じます。親と衝突する覚悟も必要だと思います。医学部における学業は、入学試験よりも遥かに大変です。確固たる信念をもって医学部を目指してほしいと思います。
一般的には、文系、理系を問わず、資格の得られる学部、学科を選ぶのがよい受験大学の選び方であるように思います。長い目でみると、大学のブランドにこだわるより実利を大事にした方がよいと思います。安定した収入が得られるというアドバンテージをベースにして、自分の夢を実現する方向性を模索していくとよいと思います。
そして、どうしてもやりたいことがあるならば、その道に進むべきだろうと思います。やりたいことが見つからない人も当然いると思います。そういう人は資格の取れる道に進むべきであろうと私は思います。そうすれば、大きな後悔をしない人生を送れることでしょう。
関連リンク 昭和大学ホームページ
略歴
昭和52年3月 熊本県立熊本高校卒
昭和59年3月 熊本大学医学部卒
昭和59年6月 熊本大学医学部附属病院研修医(第一内科)
昭和61年4月 同医員(第一内科)
昭和62年4月 熊本大学大学院医学研究科入学
平成3年 3月 同修了(医学博士)
平成4年10月 熊本大学医学部助手(生化学第二講座)
平成7年 8月 米国ダートマス大学医学部生化学教室 に留学(平成9年8月まで)
平成9年11月 熊本大学医学部講師(生化学第二講座)
平成14年11月 昭和大学医学部教授(生化学講座)
平成22年4月 昭和大学医学部学生部長
平成24年4月 昭和大学学生部長
現在に至る
委嘱委員等
日本動脈硬化学会評議員(平成6年~)
同プログラム委員(平成17年~)
日本脂質生化学会幹事(平成15年~)
日本生化学会関東支部幹事(平成15年~)
日本私立医科大学協会学生部委員(平成23年~)
東日本医科学生体育連盟理事(平成23年~)
受賞;第二回日本動脈硬化学会学術奨励賞(平成5年度)