鹿児島大学医学部長 河野嘉文先生
Q1.鹿児島大学 医学部の特色(特に良い点)を教えて下さい。
医学部(医学科・保健学科)と歯学部が主たる実習先である鹿児島大学病院とともに桜ヶ丘キャンパスにあり、学部・学科を越えての交流が非常に盛んです。講義・実習の協力体制のみならず、サークル活動やボランティア活動も一緒にできる点は、医療チームの一員として将来活動すべき学生には非常に良い経験ができると思います。
鹿児島県は自治体と鹿児島大学の連携が緊密で、医学領域では鹿児島県、鹿児島大学医学部、そして鹿児島県医師会が三位一体となって医学生から研修医までの教育に対して協力体制を構築しています。そのため、実習先も豊富で臨床教授等による学外指導も充実しています。地域の医療機関とのコミュニケーションは密にとるように心がけており、鹿児島県全域の幅広い地域の病院との協力関係を大切にしています。新しい研修医制度に移行してから、一時期は研修医の数が激減しましたが、近年は卒業生に加えて他県の大学で医学を学んだ鹿児島県出身者が鹿児島に戻ってきているという印象です。
Q2.鹿児島大学 医学部が育成したい医師像、そのための教育カリキュラムの特徴について教えて下さい。
鹿児島における西洋医学の医師育成の歴史は、1868年(明治元年)に薩摩藩が鳥羽伏見の戦いの負傷者の治療をイギリス人医師ウィリアム・ウィリスへ依頼したことに端を発します。同年に島津藩が医学校と病院を設立し、翌年に東京医学校兼病院(現在の東京大学医学部)の初代校長であったウィリスを西郷隆盛や大久保利通らが鹿児島に招聘したのです。彼はイギリス独特の臨床実証医学を重んじ、医学生に患者を前にしてのベッドサイドティーチングを行ったとされています。日本最初の医学博士であり、東京慈恵会医科大学を創った高木兼寛らを育てたことでも有名です。彼はまた、公衆衛生教育にも尽力し、牛の死肉食用禁止の指導なども行いました。赤倉病院と呼ばれた医学校はその後県立医学校となり、明治21年に一時廃止となりましたが、鹿児島における病院機能は様々な形で存続し、昭和18年に鹿児島大学医学部医学科の直接の前身である鹿児島医学専門学校に引き継がれました。1947年(昭和22年)に県立鹿児島医科大学(旧制)、1955年(昭和30年)には県立から国立への移管により、鹿児島大学医学部となりました。南九州、特に離島を含む南北600kmの広大な地域の医療と保健活動を担う医師育成の強い要望に沿って活動し、鹿児島県における唯一の医育機関として、現在まで一貫した使命を果たしてきました。
1974年(昭和49年)に鹿児島市中心部の山下町のキャンパスから、郊外の高台にある現在の桜ヶ丘キャンパスへ移転しました。桜ヶ丘キャンパスには1977年(昭和52年)に歯学部が、1985年(昭和60年)に医療技術短期大学部が設置され、医療系キャンパスとして確立されました。その後、医療技術短期大学部は1998年(平成10年)に医学部保健学科に改組され、現在の医学部は医学科と保健学科の2学科からなり、医学、看護学及び保健学の3つの学士号を授与する総合的な医療人育成機関に発展しています。
教育制度は時代とともに変化し、医学・医療は日進月歩です。医学部で学ぶ学生も、指導する教員も、それらの進歩に遅れないように勉強しなければなりません。日本の医学教育レベルが世界水準以上であることを証明するために、日本医学教育評価機構(JACME)が設立され、2017年度から世界医学教育連盟(WFME)の基準に沿った医学教育分野別評価が実施されます。私どもはいち早くこれを受審し、医学教育システムの改善に取り組もうとしております。このような状況で、鹿児島大学医学部は「人間性豊かな」、「地域に貢献する」、「研究心旺盛な」、「国際的視野に立つ」、医学・医療の担い手を育成することを掲げています。
医学教育分野別評価を意識して平成28年度から開始した新カリキュラムでは、世界の趨勢に従って臨床実習期間を延長しました。その結果、教養教育を学ぶ過程を一年間に短縮しています。その上で、基礎医学学習の時間を維持するため、結果として学生の自由時間が減り、長期の休みが以前に比較して短くなりました。学生の負担は増えたかもしれませんが、効率よく時間を使って勉強や課外活動に取り組んでほしいと考えています。
従来、医学部は教育・研究・診療の3つの重要な役割を担っておりましたが、近年の組織改編や社会的需要への対応のために、教育は医学部が、研究は医歯学総合研究科と保健学研究科が、そして診療は鹿児島大学病院が中心になって実践しております。これらの独立した部局が緊密に連携し、地域社会のご協力を賜りながら、社会で求められる医療人の育成に努力しています。
Q3.ご自身が、医師を目指されたきっかけや受験勉強でのエピソード、人生のターニングポイントなどについて、お聞かせ下さい。
比較的小さい頃から「人は必ず死ぬ」ということを意識した子供でした。漠然と、地味で良いので自分がこの世に存在した証を残したいと考え、都会でも田舎でも、どこにいても人の役に立つことが感じられる職業として医師をイメージしました。もちろん、高校生の段階でこの言葉通りに考えていたわけではありません。私は徳島県の出身で、当時は全国でも大学進学率が約3割ほどだったと記憶しています。私は大学に入って勉強してみたいという思いがありましたので、徳島では唯一の旧制中学であり、名門だった城南高校に進学しました。高校に入った直後は官僚か法曹になろうかと考えた時期もありましたが、働く場所を選ばない仕事がしたいという思いから高校二年生の時に医学部志望に転換し、医師を目指して勉強するようになりました。そして、鹿児島大学医学部に合格し、鹿児島へ来ることになりました。大学生活はとても充実しており、楽しかった思い出ばかりですが、昭和50年代の鹿児島は桜島南岳の噴火があり、火山灰に苦労しました。
その後、小児科へと進むのですが、小児科へ決めた理由は、相性や感覚に頼って決めた面が大きかったと思います。研修は東京の聖路加国際病院で受けました。四年間東京で臨床に携わりましたが、その後に研究にも取り組みたいと考え、徳島に帰って徳島大学で研究を行なった後、スイスのバーゼル大学に留学して研究を続け、徳島とバーゼルでの業績が認められて、鹿児島大学で教授職を得ることができました。
Q4.最後に、鹿児島大学 医学部を目指す受験生に求める心構え、メッセージをお願い致します。
医学部長としては、鹿児島大学医学部で学びたいという学生を取りたいと思いますが、受験時に正確にその大学の教育内容や雰囲気を把握することは困難です。従って、「私は離島医療をやりたい」というような面接用のメッセージを平然と語る受験生ではなく、教職員や仲間と一緒に学んでいくことができる「素直な」学生に来てほしいと思います。
大学としても、一般入試、推薦入試(地域枠)、バカロレア入試、学士編入学入試など様々な入試制度を通じて多様な人材を集めようとしています。これは、多様な医師を育成することで多様な患者さんへのニーズに応えようとするものです。社会は多様な医師を求めていますし、臨床医療には接客業としての側面もあります。是非、文系、理系に縛られない広い教養を持った多様性の理解できる人に受験してほしいと考えています。
関連リンク 鹿児島大学ホームページ
現職
鹿児島大学 医学部医学部長
大学院医歯学総合研究科教授発生発達成育学講座小児科学分野
経歴
1981年 3月 鹿児島大学医学部卒業
6月 医師免許取得 (医籍262350)
1981年 4月 聖路加国際病院小児科研修医、医員
1985年 4月 徳島大学医学部小児科医員
1985年 7月 バーゼル大学(スイス)血液内科留学
1987年 7月 徳島大学医学部小児科医員
1988年 7月 徳島県立海部病院小児科医長
1990年12月 徳島大学学位記取得(乙医1126)
1991年 6月 国立療養所東徳島病院小児科医員
1993年 9月 徳島大学医学部小児科医員
1993年10月 徳島大学医学部附属病院小児科助手
2000年4月 徳島大学医学部附属病院小児科講師
2000年7月 国立病院九州がんセンター小児科医長
2002年9月 鹿児島大学医学部小児科学講座教授
2003年4月 鹿児島大学大学院医歯学総合研究科教授
2009年4月 鹿児島大学医歯学総合研究科副研究科長
2015年4月 鹿児島大学医学部副学部長
2016年4月 鹿児島大学医学部医学部長
所属学会
日本小児科学会 理事、代議員、専門医
日本小児血液がん学会 評議員、暫定指導医
日本小児保健協会 評議員
日本血液学会 代議員、専門医、指導医
日本造血細胞移植学会 評議員
日本小児がん研究グループ(JCCG)理事
American Society of Hematology (ASH)
American Society of Clinical Oncology (ASCO)